本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

表現の自由と責任

 短歌を作るようになって、よく、表現の自由について考えるようになった。

 表現したいことがどんなに残酷で他人を傷つける内容だったとしても、どうしても読者に主張したいことがあるのなら、自分の信念を貫くのは自由だと思う。ただし、そのことによって、どんな批判が来たとしてもひとつひとつ丁寧に真摯に対応するのが、問題作を世に放った作者の責任というものではないだろうか。

 

 私が大好きなウラニーノというバンドがいるのだが、彼らの曲に「手の鳴る方へ」という名曲がある。その冒頭の部分を引用する。

 

  手の鳴る方へ 

   歌 ウラニーノ

   作詞作曲 山岸賢介

精神安定剤をたくさん飲んじゃった あの子がブログに書いている 誇らしげに
睡眠薬を多めに飲んじゃった あの子はメールを送ってきた 返事を待ってる
気づいて 気にして 気になって あたしを
気づいて 気にして 気になって あたしを 

 

 これは、精神疾患を抱えている者から見たら、グサッとナイフで胸を抉られるくらいの強烈な歌詞である。

 しかし、この歌詞が明るく軽快なメロディーと共に入ってくるから、不思議と、辛くならないのだ。

 そして、歌詞はさらに精神疾患の患者には苦しい内容が続き、こう書かれている。

 

どうせ 生きたいんだろう 誰よりも 生きていたいんだろう
手を鳴らして 声を大にして 叫びたいんだろう あたしはここにいると
知ってるぜ 知ってるぜ ぼくもそうなんだ

 

 この「ぼくもそうなんだ」という8文字が出てくることによって初めて、それまで、なんでこんな酷い歌詞を作るんだろう?と悲しい気持ちになっていた人がホッとして、救われるのだ。

 さらに、この曲はラップを取り入れることによって、重い内容の歌詞が軽快に聴こえてくる工夫もされている。

 こういうことが、世に問題作を放つ人の責任感というものではないかと思う。自分の作品を見て傷つく人もいるかもしれないけれど、しっかりケアをすることまで計算して作品を作る覚悟というものが必要ではないだろうか。

 

 話を短歌に戻すと、短歌には音楽はついてないし、文字だけで、それも基本的には31文字だけで伝えたいことを届けなくてはいけない。

 連作ならば、前後の短歌で問題作に救いの見出だせるようなものを入れてバランスを上手く取ることもできると思うけれど、1首の中で絶望も希望も表現した短歌となると、なかなか難しいと思う。私も、そんな1首を作れる自信はない。

 やはり、倫理的に問題のある作品は生半可な気持ちで作るべきではないと思うし、作るからには、その作品によって傷ついた人の心の傷が癒えるまできちんとケアをする心構えで作るべきではないかと思う。

 作りたいものを作るけど、読者からの批判は相手にしないというような態度を取るのであれば、人前で発表せずに紙の日記帳にでも書けばいいのだ。

 自分の作品の向こう側には読者がいるということは、絶対に忘れてはいけないと思う。