本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

創価学会と私 1

 先月25日に発行された『あみもの 第九号』に、私は、「獅子の子」という連作を発表した。これは、私が生まれる前から入信することが決められていた創価学会について、子供の頃から創価大学を中退したことまでを詠んだものだ。

 私は、自分が創価学会員であることを、ごく一部の親しい人にしか話していなかった。少なくとも、Twitterでは公言するつもりはなかった。

 でも、自分の言葉で公表しなくてはいけないと思ったのは、短歌が私の生活に欠かせないものになってきて、短歌賞に挑戦しようと思った時に、もしも、奇跡的に授賞すると、作者の経歴が詳しく書かれてしまうのが今の短歌界なので、中退した大学名を知られると同時に信仰してる宗教も知られてしまう私の経歴を考えたら、出版社等によって公表されるよりも先に、自分の言葉で知らせるべきではないかと考えたからだった。

 私は、祖母の代からの創価学会三世で、ほとんど未活動の父と活動家の母の子供として生まれた。父は、私が3歳の頃から私に虐待を始めたので、当然のように私は母にベッタリになり、母と学会の会合にゆくのが日常になった。

 創価学会は、高校生以下の子供たちを未来部と呼び、それはそれは大切にしてくれる。学校でも虐められて居場所のなかった私にとって、会合に出て創価学会のことを勉強するだけで大人たちに褒められて期待されるのは救いで、私の唯一の居場所だったといえる。

 小学校の時はレインボー合唱団という宮崎市の少年少女部の合唱団の副団長をしていたし、中学校からはセンスがなくてあまり熱心ではなかったけど創価学会富士鼓笛隊にも入っていたし、高校の時は宮崎県の女子高等部の部長にも任命されたし、鳳雛グループという県で5人だけが選ばれる人材グループにも入っているバリバリの活動家だった。こんな私のことは、よく、県の幹部から創価学会本部に報告をされていたようで、私は、創価学会池田大作名誉会長やその奥様から、激励だといって、池田先生の著書をいただいたり、メッセージをいただいたり、夏の暑い日にはアイスクリームをいただいたり、パンと牛乳をいただいたりしていたから、当然、世界でいちばん尊敬しているのは実際にはお会いしたことがないけど池田先生だと思っていたし、池田先生の作られた創価大学に行って学んで先生の弟子として社会で活躍し実証を示してゆくのが自分の使命なのだと思い込んでいた。

 でも、高校時代の私はとにかく身体が弱くて、3年間で105日も欠席があり、遅刻早退も多かったから、誰もが創価大学進学なんて無理だと言った。進路指導部の先生が

「(受からないとは思うけど)本来は欠席2週間以内の生徒しか推薦できないんだけど、貴女は品行方正だから特別に推薦状を書いてあげるよ」

と言われ、推薦入試で創価大学文学部日本語日本文学科を受験したのだが、ペーパーテストは私の苦手な英語のみだし、合格できるのは10人だけだし、センター試験に備えて大学の下見だけでもしてやる気を出そうと思って記念受験のつもりで10月に創価大学のある八王子に初めて宮崎から行ったのである。

 創価大学の中には学生による県人会があり、宮崎県人会は特に活発で後輩の面倒見がよく、私は、入試の時、ある女性の先輩のお宅に泊めていただいた。手料理を振る舞ってくださったり、キャンパス内を案内してくださったり、

「直美ちゃんなら絶対に受かると思う!」

と励ましてくださったりした。

 でも、肝心の入試は、答えを書けなかった問題が2問もあって、これはダメだな……とぜんぜん手応えがなかった。でも、実際に創価大学を自分の目で見て、優しい先輩たちに出会って、春には私も創大生になって、池田先生にお会いしたい!と思って宮崎に帰った。

 そして、ある日、1通の封書が大学から届いた。なんと、合格していたのである。思わず、玄関で、それまで一度も学業で私を褒めてくれたことのなかった父と泣きながら抱き合って喜んだ。

 地元の学会員さんたちも私の合格を自分のことのように喜んでくださって、私が旅立つ前に、盛大なパーティーを開いてくださった。とても大きな花束をいただいたり、高橋さんというおじいちゃんが

健気なり乙女心の初夢よ叶ひ給へと友は祈らむ

というお歌を贈ってくださったり、腕時計を贈ってくださった幹部もいた。このくらい、創価学会員にとって創価大学に進学するということは、おめでたいことなのだった。

 4月、大学に入学して最初の日本語学の講義で出席を取る時に、教授が

「君は、僕が面接をした宮崎の子だね」

とニコニコしながら話しかけてきた。確かに、見覚えのあるおじいちゃんだった。この時、私は悟った。ペーパーテストの出来が良くなかったのに、私が合格できたのは、面接でこの教授に気に入られたからなのだな、と。

 この時の私はまだ、大学も創価学会も嫌になって、中退して、未活動になる未来が待っているなんて想像もしていなかった。