本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

創価学会と私 2

 創価大学に入学した私は、キャンパスの敷地内に建っている女子学生寮・白萩寮に住むことになった。

 当時の創価大学にはキャンパス内に朝霧寮と白萩寮、キャンパスの外に桜花寮の3つの女子学生寮があった。

 キャンパス内に建ついちばん古い寮が朝霧寮。ここは、今はもう移転したらしいのだが、とにかく古くてボロくて狭くて、その代わり寮費がいちばん安い寮だったから、家が貧しい私は、本当はここに入りたかった。しかし、朝霧寮はすべて和室で、朝晩、布団の上げ下ろしをしないといけない。腰椎椎間板ヘルニアの持病があり、酷い時には寝込む私にはそれは無理だろうということで、朝霧寮よりお金はかかってしまうが、ベッドのある白萩寮に入ることになったのだった。

 白萩寮には、北は北海道、南は台湾から100人の女の子たちが集まっていた。90人は1年生で、残り10人のうち8人の2年生と寮長と全寮代表が3年生でひまわり委員という役職名で呼ばれ後輩たちのお世話をしてくれていた。

 部屋は9畳ほどの洋室の真ん中に二段ベッドが置かれていてカーテンで仕切られているふたり部屋。私は、2年生のひまわり委員の先輩と同室だった。

 白萩寮では、先輩と後輩の関係がわりと対等で、先輩たちとも敬語は抜きで、先輩のこともあだ名で呼ぶのが伝統だった。私も、直美ちゃんとか、こじやんと呼ばれていた。

 寮は、三階建てで、各階にキッチンがあり、ガスコンロと共同の冷蔵庫が2台ずつ置かれていた。3食自炊することになっていた。炊飯器は各自自分のものを使い部屋で炊飯する。冷蔵庫の中のものには、卵ひとつにもマジックで名前を書くのが決まりだった。今まで料理をしたことがないという子が、米を研ぐ時に洗剤を入れようとすることにびっくりしたり、私は宮崎出身で塩分の多い料理が苦手なんだけど、隣の部屋の北海道出身の子は塩分の多い味つけに慣れていたから私が失敗した料理を美味しいと食べてくれたり、誰かの誕生日が来るとみんなで料理を作って誕生会をしたり、北海道の子の実家からじゃがいもが一箱送られてきた時には、じゃがいもをテーマにした料理を作って料理の鉄人ごっこをしたり、キッチンには楽しい想い出がいっぱいある。

 お風呂は30人くらいは入れる大浴場が1階にあった。最初はみんな恥ずかしがるんだけど、2~3日経つと慣れてきて、裸を隠す人は誰もいなかった。ボイラーが22時で止まってしまうから、それまでに入浴しなければいけないことを除けば、銭湯の気分を味わえて快適だった。

 創価大学の学生は、おそらく、留学生やスポーツ推薦などの特別な学生を除けば、9割くらいは創価学会の信者だと思う。白萩寮も創価学会で信仰していない子はひとりしかいなかった。だから、寮内にも当然のように広い仏間があった。グランドピアノも置いてあり、100人全員が余裕を持って座れるのだから、そうとう広い和室だったし、仏壇も大きくて立派なものだった。強制ではないのだけど、朝と晩には勤行唱題という法華経の経文を読経する時間が設けられており、みんなで読経して祈り、創価学会の機関紙である聖教新聞に連載されている池田大作名誉会長の小説『新・人間革命』の朗読をしたり、日蓮がたくさんの人たちに残した手紙を集めた御書の一節を学んだり、みんなで学生歌と呼ばれる大学の校歌や寮歌や学会歌を歌ったりするという時間があったことは、創価大学の寮独特の習慣だったと思う。

 私が、初めて、東京の創価学会の組織の在り方に疑問を持って信じられなくなってきたのも、白萩寮時代だったのだけど、それはまた別の話。