本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

創価学会と私 10

 創価大学でいちばん楽しかった講義は、私の学科の必修科目でもあった近代日本文学の講義だった。

 岩野泡鳴研究の第一人者でもある大久保典夫教授の講義は、とても辛口で厳しかったけど、私は、先生がいつも言われていた

「純文学の作家にはろくな奴がいないんだ。親不孝な奴ばっかりだ。そうじゃないと純文学は書けないからだよ」

というお話が大好きだったし、

「俺が作家じゃなくて大学の教授なんかやってるのは、人間ができているからだ」

というジョークも大好きだった。学生の好き嫌いが真っ二つに分かれる先生だったけど、私は、大久保先生のもとで、作品はとても素敵だけど人間性には一ミリも共感しない三島由紀夫の研究がしたいと思うようになっていた。

 ところが、大久保ゼミの面接の当日に、私は40℃を超える高熱を出して行くことができなかった。大久保ゼミは、近代の日本文学を学びたいと思う学生には人気のゼミだったので、二次募集もなかった。

 古文には興味はなかったし、日本語学の方にもそれほど興味のなかった私にとって大久保ゼミに入れなかったというのはとてもショックで、私は、これ以上、この大学で学ぶ意味はないと思うようになっていた。

 二次募集のあった他のゼミに入って、当時、興味のあった狂言オノマトペについての卒論を書いて単位も取ったけれど、他の講義を受ける気力がほとんど残ってなくて、母と電話で泣きながら話し合い、1年留年し、それでも頑張って卒業しようという気にはなれなかった。

 当時は、脚本家になりたいという夢もあって、大学を辞めたら働きながら脚本家養成の専門学校で学ぶつもりで準備も進めていた。これ以上、大学に残って単位を取るためだけに嫌々勉強を続けるよりも、1本でも多くの脚本を書く方が自分のためにはなると思ってたし、ゼミの助教授にも相談すると、

「貴女が目指そうとしている世界は、普通に大学を卒業して普通の暮らしをしている人には成功できない世界だと思います。ドロップアウトをするのもいいことだと思います」

と背中を押してくださり、両親のことも説得して、同期が卒業した1年後に中退した。

 でも、運悪く、この直後、父が倒れて、実家に少しでも仕送りをせねばならない事態が発生し、脚本家の専門学校へは通えなくなり、日々の生活をしてゆくだけで精一杯になり、また、夢がひとつ消えた。