本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

うたの日の100人の短歌・第3グループ⑩菊華堂さん

 私自身の歌の欠点のひとつとして、1首の中で説明をし過ぎていて読者に想像の余地をあまり与えていないということがあると思っているのだけど、菊華堂さんのお歌を読んでいると、反省させられることがけっこうあります。
 菊華堂さんは、短歌結社の歌林の会(かりん)にも入られていて、新聞歌壇などにも積極的に投稿されているのですが、私は、菊華堂さんのお歌をちゃんと理解できているのかというと、全く自信がありません。そのくらい、説明的なものを短歌から排除して詠まれている印象が強いです。


逆上がりひとりで出来たあの日から僕は何かを落としたままだ/菊華堂 2017年11月18日お題「逆」


 私は体育はいつも2で逆上がりもできないまま小学校を卒業したんですけど、このお歌で不思議なのは、主体が逆上がりをひとりでできるようになるまでには、たぶん、授業の時も休み時間も放課後も何度も何度も一生懸命練習をしたと思うのですが、子供が何かに真剣に取り組んだ結果それができるようになったら、普通は喜んで得意になりそうなものです。ところが、この主体からは、喜んでいる様子がほとんど感じられません。
 逆上がりがひとりでできるようになっても純粋に喜べないほどの何をこの主体は落としたというのでしょうか?
 逆上がりがひとりでできるようになる前には、主体の練習に付き合ってくれる先生や親や友人がいたのかもしれません。でも、ひとりでできるようになったから、もう、誰かの助けを借りる必要はなくなりました。
 ひょっとしたら、主体は、もう、これからは、誰にも頼らずに自分の力で何でも乗り越えてゆかなくてはいけないのだと、それが大人に近付くということだとなんとなく悟ったのではないかと思うのです。逆上がりができたと同時に、自分の少年時代の終わりが見えてしまったような気がしたのではないでしょうか。何かを得るためには何かを捨てなければいけないのだということに何となく気付いたのかもしれないなと思いました。