本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

うたの日・お題「恋」

恋すると綺麗になるといいますが君と逢うたび丸くなります

 好きな人と一緒にいるだけで、食べ物がなんでも美味しいので、私の場合は、幸せな恋をすればするほど体重も増えてゆく。
 これが、お付き合いしてる相手とだったら、食後にセックスすれば、多少はカロリーも消費されるんだけど、片想いだと食べるだけ食べて食べた分だけ太る一方だ。
 たぶん、ジムのインストラクターなんかに恋をするしか私が恋をして綺麗になる方法はないんじゃないだろうか?と思うくらい。

うたの日・お題「自由詠」

日の丸は優しい旗だ絵心のない私でも見ないで描けて

 この歌は、実は、うたの日で「旗」のお題が出た時に作ってストックしておいたものだ。
 私の思想は、右寄りでも左寄りでもないのだが、日の丸にはちょっと特別な想いがある。日の丸を考案したと言われているのが、私の母方の祖母のご先祖様の兄である、薩摩藩主だった島津斉彬だからだ。
 彼がどんな想いで日の丸を考えたのかと思うと胸が熱くなる。斉彬は、薩摩藩という日本の端っこにいながら、常に世界に通用する日本を作ることを考えていた。彼は志半ばで倒れてしまったけれど、彼が鹿児島の城から見える桜島と太陽の美しさに感動して考えた日の丸が国旗となり、令和の世にもずっと掲揚されていることは、すごいことだなと思うのだ。
 それに、このシンプルさがとてもいい。幼い子供にも、私のようにどんなに絵心のない人でも描ける。
 この旗が戦時中は軍国主義の人たちに悪用されてきたことももちろん忘れてはならないけれど、それでも、いいデザインの旗だなと思うのである。

うたの日・お題「役」

刺身しか食べたがらないトラ猫に生まれ変わった売れない役者

 この歌、最初は、

刺身しか食べようとせぬシャム猫に生まれ変わった髭の重役

だったんだけど、食べたがらないの方が、現代的な日本語としては自然だなと思ってまずそこを直し、刺身だから日本の猫の方がいいかと思って三毛猫にし、重役だったら死ぬ前もお刺身はいっぱい食べたに違いないと思って、お刺身を食べたくても食べられない人が生まれ変わった方がいいだろうと売れない役者にし、漢字ばかり使ってるから三毛猫はトラ猫にしてみた。

 人間の一生と猫の一生はどちらが幸せなのだろうか。 

今日の自由詠

長い夢から目が覚めて君と似た薬剤師にも動揺しない

 今日は病院だったから、薬局に寄ったんだけど、好きだった人と兄弟なのでは?と思うくらい彼と顔も声も骨格もそっくりな薬剤師さんを間近で見て声を聴いても、もう、ぜんぜんドキドキしなかった。
 今まで、私は、自分から好きになった人のことを嫌になったことは一度もなくて、片想いしてた人も、お付き合いしてて別れた人も、みんな大切な人なんだけれど、人生で初めて、好きだった人に幻滅したかもしれない。
 そういえば、私が彼に手紙で告白した後に彼からも
「優しいと言われるのは嬉しいけど、実際は優しくないからいずれ幻滅するかもしれませんよ」
と言われていた。
 私は、彼が私に幻滅することはあっても、私が彼に幻滅することはあり得ないとあの時は思っていたから、彼の言葉の方が正しかったようだ。
 もう、彼に似た人を見ても似てるなとしか思わなくなったので、長かった片想いもこれで終わったのだと思う。

昨日の自由詠

好きじゃない今も会社のパソコンは君の誕生日がパスワード

 昨日は、連休が明けて初の出社だった。
 私の会社のパソコンは、パスワードがいくつもあるんだけど、そのうちのひとつを3年間好きだった人の生年月日に設定していた。パスワードを決めた時は、まさか、彼を好きじゃなくなる日がくるなんて思ってもみなかったし、私の好きな人の誕生日なんて社内の誰も知らないから絶対に私しかログインできないから。
 彼のことをちゃんと忘れるには、転職するしかないのかもしれない。パソコンにログインするたびに彼のことを思い出すから。

うたの日・お題「臨」

散りぎわの桜のように最期まで感謝を述べた祖父の臨終

 松たか子ちゃんの「桜の雨、いつか」という曲を聴いたり歌ったりするたびに、ああ、この曲はじいちゃんのテーマソングだなあと思うんだけど、私の祖父は、私が5歳の4月に亡くなった。
 祖父危篤の知らせを聞いて、母と生後10か月の妹だけが京都から宮崎に飛んだ。
 それまで意識のなかった祖父は、ふと、目覚め、妹を身体の上に乗せて遊ばせながら、集まった親族ひとりひとりに言葉をかけたのだと言う。8人兄弟の末っ子の母には
「ばあちゃんは知子に頼む」
と。そして、選挙の時にお世話になった町役場の人にまでお礼の言葉を述べたのだそうだ。
 でも、当時、祖母に対して嫌がらせをしていた次男の嫁にだけは
「ノリヨはノリヨ」
という意味深な言葉をかけて、祖父は息を引き取ったのだった。
 それからわずか3か月後に妹が事故死したのだが、
「じいちゃんが淋しくていちばん可愛い孫を連れていったのかね……」
なんて話してたこともあるが、祖父は、いい人であった。