本気子の部屋

短歌、回文、日常を綴ります。

創価学会と私 13

 誰よりも私を大切にしてくれていた恋人が刑事としてのあまりの激務に精神が崩壊してしまった時、私は毎日彼の回復を祈ったけれど、彼の状態は悪くなる一方で、彼の仕事はますます忙しくなるだけで、彼は、40℃の熱があっても出勤したり、非番の日や休みの日も出勤したりと無理を重ねていて、何もしてあげられることはなかった。

 彼から、

「今の自分には直美のことを考える余裕がない。直美を幸せにしてあげることはできない。ごめん」

と泣きながら別れを切り出された時、今の私には、こんなに辛い想いをしている彼と別れて少しでも負担を減らしてあげることしかできないと思って、

「わかった。でも、ひとつだけお願い。病院には必ず行ってね?」

と伝えて、5年間のお礼を言って、彼の車を降りた。

 私は、祈りは何でも叶うというのは嘘だと思った。

 そう思うのは、それが初めてではなくて、遡れば、まだ1歳になったばかりだった妹が死んでしまった時にも、信心をしていたって不幸になることもあるということに気づいていたはずなんだけど、信仰でどんな悲しみも乗り越えることができる強い自分になれることが幸せなのだと思い込んでいただけだったのだと思った。

 どうして、彼のように、いつも優しく、面白く、明るかった人が、頑張って勉強して試験に受かって使命感に燃えて就いた仕事でこんなにも辛い目に遭い、まるで別人のように心を閉ざしてしまわなくてはならなくなったのか。どうして、そんな彼を救いたいという祈りは届かないのか。

 こんなに心から愛している人と結婚できないことが私に与えられた宿業だというのなら酷すぎると思ったし、もう、何も信じられなくなった。