今日の自由詠
純粋に人を信じていた頃は自分のおしっこだって飲んでた
若い人には信じられない話かもしれないが、私が子供の頃、尿飲療法という健康法がブームになったことがある。
私の祖母は身体が弱かったから健康オタクで、健康によいと聞けば藁にもすがる思いでなんでも試してみる人だった。それが、尿飲療法でも。
私は大のおばあちゃんっ子だったので、祖母がいいということならいいに決まってる!と思い、しばらくの間、祖母と一緒に自分の尿を飲んでいた。飲み物ではないので、美味しくはなかったが、鼻をつまめば不味いということもなく、何度か続いた気がする。特に健康になった実感はなかったが、私は、大好きな祖母ひとりだけを変わり者扱いさせたくないという気持ちがあった。自分がやってることは異常だという自覚もあったけど、自分がどう思われるかということよりも、祖母の方がずっと大切だった。
何がきっかけで尿飲療法をやめたのかは覚えていないが、自分の大好きな人を信じ抜いて、どこまでもついてゆくという気持ちは、あの頃からずっと持っているような気がする。
ふと思ったのは、今日で全員の死刑が執行されたオウム真理教の幹部たちのことだ。彼らと私の何が違うというのだろう。彼らは、心から信じる教祖から人を殺せと命令され、それに従ってしまって、それは絶対に許されることではないのだけれど、私の尊敬する人や好きな人の中にはたまたま殺人を命じるような人がいなかっただけで、もし、命令されていれば、私も彼らのような殺人犯になっていた可能性もある。
信じるということは美しいことだけど、一歩間違うと恐ろしい。人が人を信じる心を利用する人はもっと恐ろしい。そんなことを考えた一日だった。