うたの日の100人の短歌・第9グループ②西村曜さん
西村曜さんは曜と書いてあきらさんと読みます。未来短歌会所属で、書肆侃侃房から第一歌集の『コンビニに生まれ変わってしまっても』が大好評発売中です。
うたの日では西村曜さんの他に平等院鳴彦さんとしても出詠されています。
曜さんのお歌の多くに私がいつもよく感じるのは、心地好い淋しさです。幸せなお歌を詠まれていてもなんとなく陰があって、たぶん、曜さんは、淋しさや悲しみとでも友達になれる優しさのある人なんだろうなというイメージがあります。そんなイメージのお歌の中から2首紹介したいと思います。
三角定規借りにきてくれてありがとう貸すのはわたしだけどありがとう/西村曜 2016年7月11日・お題「定規」
主体は小学生か中学生くらいでしょうか。三角定規を授業で使うから、算数か数学だと思います。まず、この三角定規を初句に持ってきた大胆さにびっくりさせられますが、よく読むと、せつない内容です。
普通、物を誰かに借りて感謝するのは当たり前なんですけど、物を貸して感謝することって、滅多にないと思います。
このお歌で考えられる可能性としてふたつ考えたんですけど、まず、主体は、三角定規を貸した相手と喧嘩をしていて口を利いてもらえなかったのかもしれないと思いました。でも、相手が三角定規を忘れてしまったのをきっかけに、思いきって主体に借してほしいと声を掛けたのではないでしょうか。
もうひとつは、主体は、いじめとまではいかないけれど、クラスに友達がいなくて、普段、誰とも会話をしていないのかなと思いました。だから、三角定規をただ借りにきてくれたということさえも、とても嬉しくなったのです。貸すのはわたしだけど、それでも嬉しい。
どちらにしても、主体は心に淋しさを抱えていて、でも、主体はそれを悲観してはいなくて、寂しいからこそちょっとしたことにも喜びを見出だせる心の豊かさを持っているのだと思います。
三角定規を借りにきてくれたことがあまりに嬉しくて、弾む気持ちが定型の短歌には収まりきらなかったように見えました。
願いとはそれでもきみがあきらめず折ったつばさがよれている鶴/西村曜 2017年4月15日・お題「願」
鶴に願いを込める時というのは、たいてい、大切な人が病気や事故等で大変な時に、その人の回復を祈って折ると思うんですが、きみが、誰のために何を願ったかまではこのお歌からは読み取ることはできません。
このお歌からわかるのは、きみは、たぶん、不器用で、折り紙の本を見たりしても、なかなか鶴を折ることができない人なのだろうということです。それでも、きみにはどうしても鶴に込めたい願いがあって、あきらめずに何度も折り紙を折り直して、なんとか、鶴を折ったのでしょう。つばさがよれている鶴だけれど。
きみを見守っている主体は、たぶん、鶴を折れる人なのだと思います。でも、きみが一生懸命に鶴を折れるまで頑張っていて、きみがどんなことを願っているのかをわかっているからこそ、手を貸さない。きみにとっては孤独な時間かもしれないけれど、きみがどんなに強く願い事をしているかを知っている、または、主体も同じことを願っているからこそ、きみがどんなに不器用でも手伝おうとはしなかったのだと思います。そういう静かな見守り方のできる人というのは、自分もまた、誰かにそんなふうに見守ってもらった経験があるから、口を出したり、手を出したりするということをしないのだろうとも思います。ひとりの時間を大切にできる主体だからこそ、きみのひとりの時間も大切にできるのでしょう。
つばさがよれていても頑張って折った鶴に込めた願いは、きっと叶ったのではないでしょうか。